2023年の大河ドラマは、人気若手俳優が主演を務める「どうする家康」!
徳川家康は、その幼少期を当時駿河国・遠江国(現在の静岡県中・西部)を領した戦国大名・今川氏の人質として駿府(現在の静岡市)で過ごし、織田信長との同盟関係にあった青~壮年期には浜松城、駿府城を居城としました。
その後、豊臣秀吉の命により関東へ移封となりますが、天下人となった晩年には「大御所」として再び駿府に帰還してこの地で生涯を閉じ、久能山へ葬られるなど、静岡県は家康の生涯と深く繋がり、ゆかりの地も数多く存在しています。
今回は、大河ドラマの放送に先駆け、家康の足跡をたどりながらゆかりの地を巡ってみたいと思います。
幼少期 ~今川氏人質として駿府へ~
1542(天文11)年、三河国(現在の愛知県東部)岡崎城主・松平家の嫡男として産まれた家康(幼名:松平竹千代)は、父・広忠の時代、松平家が当時強大な戦国大名であった今川氏傘下となったことから、忠誠の証として今川氏の人質となり、8歳から19歳までの12年間を駿府で過ごすこととなりました。
臨済寺(静岡市)
臨済寺は静岡市葵区、静岡市街地にある駿府城公園から徒歩25分ほど、静岡の地名発祥の地として知られる賤機山(しずはたやま)の麓に位置しています。
戦国の雄・今川氏の菩提寺として、今川氏輝・義元らの墓所、歴代の今川氏当主の位牌が安置されており、家康が今川氏の人質であった幼少時代、今川義元の参謀でもあった太原雪斎(たいげんせっさい)禅師から教育を受け、武将としての倫理・哲学を学んだ地としても知られています。
後の1568(永禄11)年、武田信玄による駿河侵攻が開始されると、駿府城下に火が懸けられ、臨済寺の堂宇も灰燼に帰しますが、武田氏滅亡後に駿河国を領した家康が1582(天正10)年、正親町(おおぎまち)天皇の勅命により再建し、その後も江戸幕府から手厚い庇護を受けることとなりました。
現存する本堂は、国の重要文化財に指定されており、また、現在は「竹千代手習いの間」が復元されています。
※臨済寺は臨済禅の修行場であるため通常は非公開で、年2回(春:5月19日、秋:10月15日)のみ、一般公開されています。
【問い合わせ】臨済寺 TEL:054-245-2740
静岡浅間神社(静岡市)
静岡浅間神社は、駿府城公園から徒歩15分ほど、臨済寺と同じく賤機山の麓に位置(臨済寺からは徒歩10分ほど)しています。
家康が今川氏の人質であった14歳の時、今川義元を烏帽子親としてこの社で元服式を行ったことで知られており、松平竹千代は元服後、松平元康(まつだいらもとやす)と名乗ることとなります。
後の1581(天正9)年、家康は武田氏攻略にあたって戦勝を祈願し、平治の後に必ず再建することを誓って社殿を焼き払い、神社の背後にあった武田方の賤機山城を攻め滅ぼしました。1586(天正14)年には、その誓いを果たすべく東海各国に勧進を行い、社殿を再建するにいたっています。家康は、生涯にわたってこの社を篤く崇敬したことから、歴代徳川将軍の祈願所となり、江戸幕府から手厚い庇護を受けることとなりました。
その後も、火災により何度か焼失を繰り返してきましたが、現在に残る社殿の多くは、1804(文化元)年から60年余りの歳月と、10万両もの巨費を投じて再建されたもので、26棟に及ぶ社殿が国の重要文化財に指定される豪華な建築群となっています。また現在は、2014(平成26)年から20年もの歳月をかけて大改修が進められており、改修を終えた大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)本殿、楼門などでは、艶やかな光沢を放つ創建時の華麗な姿が蘇っています。
【問い合わせ】静岡浅間神社 TEL:054-245-1820
今川氏の人質として過ごした幼少期、家康と松平家にとっては苦難・苦渋の時代ではありましたが、一方、太原雪斎禅師は早くから家康の武将としての才能を見出して教育を授け、その人間形成に大きな影響を与えたとされています。
もしかしたら、静岡の穏やかな風土、豊かな人と自然が、後に天下人として大きく成長していく家康の幼少期を支え、育んだとも言えるのではないでしょうか?
青年~壮年期 ~信長との同盟、戦国武将へ!~
1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長によって討ち取られると、家康(松平元康)はこの機に乗じて三河国に帰国します。1562(永禄5)年、織田信長との同盟(清州同盟)を結んで今川氏からの独立を果たすと、以後、徳川家康と名をあらため、戦国大名として成長を遂げていくこととなります。
元城町東照宮(引間城跡)(浜松市)
元城町東照宮(引間城跡)、浜松城はJR浜松駅から徒歩15~20分ほど、浜松市の中心部に位置しています。
1568(永禄11)年、今川氏の衰退に乗じた家康は遠江国に侵攻すると、引馬城(古城)を攻略し、この城に入城しました。この時、「引馬」は馬を引く負け戦を連想させ、縁起が悪いとして「引間」と改めたのだそうです。
その後、城郭を大幅に拡大し、古城の西側に築いた本城を「浜松城」と名付けたため、「浜松」という地名が広まり、引間城は広大な浜松城の一郭として取り込まれていきました。
時代は下り、明治維新後の1886(明治19)年、旧幕臣で浜松城代も務めた井上延陵(いのうええんりょう)が、かつて家康が居城した引間城跡に家康を祀る東照宮を建立したいと考え、この地に元城町東照宮を創建しました。この社殿は戦火により焼失してしまいましたが、1958(昭和33)年に再建され、現在に至っています。
この引間城ですが、今川氏の家臣・飯尾豊前守が城主であった時代、その配下であった松下家に、当時まだ「猿」と呼ばれ、無名の青年であった豊臣秀吉(木下藤吉郎)が、16~18歳までの3年間、奉公していたのだそうです。豊臣秀吉と徳川家康、後に天下統一を果たすこととなる二人の英雄が、この地で無名時代を過ごし、その後あらゆる困難を乗り越えて大出世したことから、現在の元城町東照宮は、二人の天下人を送り出した最強のパワースポット「出世神社」として知られ、境内には2人のブロンズ像も設置されています。
【問い合わせ】浜松市観光インフォメーションセンター TEL:053-452-1634
浜松城(浜松市)
家康は、1569(永禄12)年から1586(天正14)年まで、29歳から45歳の17年間を浜松城に居城し、その若き日を過ごしました。この時期は織田信長との同盟関係にあり、敵対する武田氏、浅井・朝倉氏などとの激しい戦いの渦中に置かれることとなります。後述する三方ヶ原の戦い、高天神城の戦いの他、姉川、長篠、小牧・長久手の戦いなど戦国史上有名な数々の激闘が繰り広げられたのもこの時期のことでした。
この浜松城は、その後の江戸時代においても徳川譜代の大名各家が次々と在城し、歴代の城主が江戸幕府の重役に出世した例が多いことから、「出世城」とも呼ばれています。
明治維新とともに廃城となりましたが、浜松城跡は1950(昭和25)年に「浜松城公園」となり、1958(昭和33)年には復興天守が再建されています。
現在の浜松城公園は桜の名所としても知られる市民の憩いの場となり、また天守閣は、家康が19歳の時に着用したとされる金陀美具足(きんだみぐそく)など、ゆかりの品々を見学することができる資料館となっています。
【問い合わせ】浜松城天守閣・天守門 TEL:053-453-3872
犀ヶ崖資料館(浜松市)
1573(元亀3)年、甲斐(現在の山梨県)の武田信玄は、織田信長との決戦を期し、大軍を率いて上洛を目指しますが、その途上、家康が居城する浜松城を無視するような行軍をして家康を挑発します。激怒した家康は城から打って出、三方ヶ原で決戦を挑みますが、戦国時代最強と謳われた武田騎馬軍団の前に大敗を喫します(三方ヶ原の戦い)。
わずかな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる「空城の計」によって、追撃してきた武田軍の猛将・山県昌景の警戒心を煽り、城内に突入することを躊躇させて、この人生最大の危機を乗り越えました。
大敗を喫した家康でしたが、なんとか一矢報いようと、犀ヶ崖(さいががけ)に白い布を架けて橋と見せかけ、付近に夜営していた武田軍に奇襲を仕掛けます。地理に暗い武田軍は混乱して崖下に転落し、多くの死者を出したと伝えられています。
犀ヶ崖は、浜松城の北1㎞ほどに位置する渓谷で、三方ヶ原古戦場として1939(昭和14)年に静岡県の史跡に指定されています。また、これに近接し、かつては三方ヶ原の戦いによる死者の霊を祀った宗円堂というお堂が建立されていましたが、現在は犀ヶ崖資料館に改修され、三方ヶ原の戦いなどに関する展示を見学することができます。
【問い合わせ】犀ヶ崖資料館 TEL:053-472-8383
高天神城跡(掛川市)
高天神城は、現在の掛川市上土方・下土方に位置する山城で、「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝に位置し、標高132mの鶴翁山の地形を巧みに活かして東海一の堅塁を誇り、「難航不落の名城」と呼ばれました。ここでも、家康と武田信玄・勝頼による攻防戦が繰り広げられ、戦国史上においても名高い激戦の地となっています。
1574(天正2)年、武田勝頼は2万5千もの兵力を動員して高天神城を攻撃(第一次高天神城の戦い)すると、城方の内通と反乱もあり、父・信玄ですら落とすことのできなかった高天神城を遂に攻略します。
しかし、1575(天正3)年、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に敗れると、攻勢に転じた徳川軍は諏訪原城など周囲の城を落として高天神城の補給路を断ち、1580(天正8)年、満を持して総攻撃(第二次高天神城の戦い)を開始します。城将・岡部元信も激しく抗戦しますが、兵糧攻めにあい、また武田勝頼も援軍を送ることができなかったことから、翌1581(天正9)年、岡部以下の城兵は城から打って出ると、敵陣への突撃を敢行し、そのほとんどが討死するという壮絶な最期を遂げました。
現在の高天神城跡は、2017(平成29)年に続日本100名城に選定、また国の指定史跡として遊歩道も整備されています。鬱蒼と生い茂る杉や檜に覆われ、昼なお暗い石段を登って山頂に向かうと、この山全体が巨大な要塞であったことを伺うことができます。
【問い合わせ】掛川観光協会 TEL:0537-24-8711
浜松城在城時の家康は、織田信長の同盟者として武田氏などとの激しい戦いの渦中に置かれ、ここでもまた苦戦・苦難の連続でした。特に、三方ヶ原の戦いにおいては大敗を喫し、九死に一生を得るような経験もしましたが、一方この戦いは、家康が強大な武田氏に対しても黙って領内を蹂躙されることを許さない、命をかけて領内を守るという、領主としての義務を果たす武将であることを、内外に示した戦いであったとも言われています。
こうして家康は、この浜松の地で「海道一の弓取り」として武名を上げ、後の天下取りへの足掛かりを作りました。
「出世の街」浜松という土地の持つ活気、この地に住む人々が持つ熱気が、家康にもパワーを与え、若き日の家康に天下取りへのエネルギーを蓄えさせてくれたのではないでしょうか?
老年期 ~天下人・征夷大将軍へ!~
武田氏の衰退とともに駿河国を領国の一つとした家康は、その居城を浜松城から駿府城に遷すこととし、1589(天正17)年に築城を完成させますが、翌年には関白・豊臣秀吉の命によって関東へ移封されてしまいます。
しかし、秀吉の死後、最大の実力者として天下人への道を歩むこととなり、1600(慶長5)年、天下分け目の合戦「関ケ原の戦い」で東軍を率い、石田光成旗下の西軍に勝利すると、1603(慶長8)年、62歳の時に征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開くこととなりました。
富士山本宮浅間大社(富士宮市)
富士山本宮浅間大社は、JR身延線富士宮駅から徒歩10分ほど、富士宮市の中心部に位置しています。
全国に1300余ある浅間神社の総本宮であり、古来、富士山を御神体とする浅間信仰の中心地として知られていますが、その富士山の8合目以上は富士山本宮浅間大社の境内地であるという事実には、家康が深い関わりをもっています。
1600年(慶長5)年、「関ケ原の戦い」に勝利した家康は、1604(慶長9)年、戦勝の御礼として、大社の本殿、拝殿、楼門など約30棟に及ぶ壮麗な社殿を造営します。さらに、1609(慶長14)年には、富士山山頂(奥宮)に奉納された賽銭を、大社の社殿修理料に充てることを取り決めました。これは、家康が富士山頂の土地は大社の境内地であると認識していたことを意味しています。
後に、いくつかの社寺が富士山頂の所有権を主張して論争が巻き起こりますが、1779(安永8)年、江戸幕府は富士山8合目以上を浅間大社の境内地として正式に認めることとなりました。その決定には、かつての家康の意向が大きく関わっていると考えられています。
現在、大社の社殿は、本殿、幣殿、拝殿、楼門が現存しており、本殿は国の重要文化財に指定されています。また、富士山の溶岩の間から湧出した地下水が池となった湧玉池(わくたまいけ)は、国の特別天然記念物に指定され、平成の名水百選にも数えられています。
【問い合わせ】富士山本宮浅間大社 TEL:0544-27-2002
晩年 ~再び駿府へ~
征夷大将軍となった家康ですが、わずか2年後の1605(慶長10)年、その職を2代将軍・秀忠に譲ると、その翌年には「大御所」として再び駿府城に居城することとなります。
駿府城公園(静岡市)
駿府城公園は、JR静岡駅から徒歩15分ほど、静岡市街地の中心部に位置しています。
家康は、駿府入城にあたり、城の拡張・修築を行うとともに、駿府の町割りや大規模な安倍川の治水事業に着手し、現在の静岡市街地の原型はこの時に作られました。当時、大御所政治の拠点であった駿府は江戸を凌ぎ、政治・経済・文化の中心であったと言われています。
残念ながら、後の1635(寛永12)年、駿府城下の火災が延焼し、天守閣も焼け落ちてしまいましたが、1989(平成元)年に静岡市制100周年記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が復元されると、その後、東御門、二ノ丸南西角の坤櫓(ひつじさるやぐら)なども復元され、現在は「駿府城公園」として市民の憩いの場となっています。また、2016(平成28)年から天守台の発掘調査が開始されると、そのサイズは南北68m、東西61mに及んで江戸城(45m×41m)をはるかに凌ぎ、他に類を見ない巨大なものであったことが判明しています。
【問い合わせ】駿府城公園二ノ丸施設管理事務所 TEL:054-251-0016
清見寺(静岡市)
清見寺は静岡市清水区、JR興津駅から徒歩15分ほど、眼下に清見潟と三保松原の絶景を望む高台に位置しています。
奈良時代の創建と伝えられ、特に室町時代には足利尊氏から深い崇敬を受けて、日本を代表する10ヶ寺「全国十刹」に置かれるなど、大いに栄えたのだそうです。しかし、戦国時代に入ると交通の要衝に位置していたこともあって度々戦火に巻き込まれ、境内は荒れ果ててしまいました。これを再興したのが、家康が今川氏の人質として過ごした幼少期に教育をほどこした太原雪斎禅師(前出)だと伝えられています。
駿府城を居城とした家康は、豊臣秀吉がおこした文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により断絶していた朝鮮王朝との国交を回復するため、1607(慶長12)年、467名の朝鮮使節団(朝鮮通信使)を駿府城に招き、その宿舎を清見寺に定めました。朝鮮通信使は、1811(文化8)年までに12回来日し、その間、清見寺は日本と朝鮮の文化交流の場として、家康の推し進めた平和外交の象徴的な存在となりました。
現在の清見寺には、通信使による扁額や多くの詩書などが残されており、ここに所蔵されている通信使詩書48点を含む「朝鮮通信使に関する記録」は、ユネスコの「世界の記憶(旧・世界記憶遺産)」にも登録されるなど、世界的にも貴重な文化財として認められています。また、清見寺の庭園は国の名勝に指定されており、家康お手接ぎの梅樹・臥竜梅(がりゅうばい)などを見ることができます。
【問い合わせ】清見寺 TEL:054-369-0028
没後 ~家康、神様になる~
晩年を「大御所」として駿府城に居城し、1614~1615(慶長19~20/元和元)年の大阪冬の陣、夏の陣で豊臣氏を滅ぼした家康は、1616(元和2)年、75歳でその生涯を閉じ、遺言により久能山へ葬られることとなりました。
久能山東照宮(静岡市)
久能山東照宮は、静岡市駿河区、駿河湾を眼下に望む久能山頂付近に位置しており、参拝には、日本平山頂からのロープウェイ利用、または駿河湾側の久能山麓から1159段の階段を上る方法があります。
家康の、「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ。関八州の鎮守になろう」との遺言により創建されました。
生前、あらゆる艱難辛苦の末に戦乱の世に終止符を打ち、260余年にもわたる泰平の世の礎を築いた家康は、朝廷より「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」の神号を賜って御祭神となり、平和の守護神、国家鎮護の神として、朝廷・幕府から篤い崇敬を受けることとなりました。
久能山東照宮は、当時最高の建築技術・芸術を結集して建立され、「権現造り(ごんげんづくり)」と呼ばれる総漆塗、極採色の社殿は、日光東照宮をはじめ、後に全国で多数造営された東照宮の創祀・原型となっています。
また近年では、2006(平成18)年に社殿の漆塗り替えを完了し、古の壮麗な姿が蘇るとともに、2010(平成22)年には、江戸初期の代表的建造物として、本殿、石の間、拝殿が国宝に指定されています。
【問い合わせ】久能山東照宮 TEL:054-237-2438
晩年の家康は、日本の最高権力者であり、将軍職を2代・秀忠に譲った後は、おそらく日本中どこにでも、好きなところに住める立場ではなかったかと思います。
では何故家康は、終の棲家として、また、自らを埋葬する土地として、この地を選んだのでしょうか?
西に安倍川・大井川、東に富士川と箱根の天険があり、関東防衛の拠点として戦略的な意味があったから・・・とも考えられていますが、きっとそれ以上に、家康は艱難辛苦の日々の中で、若き日を過ごしたこの地の風土、この地に住む人々を愛し、懐かしみ、いつかまたこの地に帰りたいと想い続けていたのではないか・・・静岡人である筆者はそう考えています。
今回は、静岡県内にある代表的な家康ゆかりの地、その幾つかを訪ねてみましたが、家康と静岡県との関わりは深く、ここではご紹介しきれなかったゆかりの地がまだまだ多数存在しています。
大河ドラマを視る前に、これらの地を訪ね、家康の足跡とその生涯に触れていただけたら、きっとストーリーはさらに奥深いものになり、よりドラマを楽しむことができるのではないでしょうか?
2023年の大河ドラマで人気俳優が演じる家康は、一体どんな家康像になるのでしょうか?今から楽しみですね。