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ホームスポット名所戦国時代最強の山城!? 徳川家康×武田氏攻防の地・高天神城址で戦国武将の息吹を感じよう。

戦国時代最強の山城!? 徳川家康×武田氏攻防の地・高天神城址で戦国武将の息吹を感じよう。

戦国時代に「高天神を制するものは遠州を制する」と語られた要衝の城・高天神城。掛川市南部の、のどかな田園地帯にある鶴翁山(かくおうざん)山頂に築かれたこの城は、戦国時代、徳川家康と武田信玄・勝頼による激しい領地争いの舞台となり、特に1574年と1581年の2度に渡る戦いは「高天神城の戦い」として戦国史上でも激戦として有名です。また鶴翁山は、高天神社が鎮座し、信仰の場として地域に守られてきた場所でもあります。
山腹の一部には、今なお土塁や堀切などの遺構が残り、富士山や遠州灘の眺望も楽しめるため、手軽なハイキングスポットとしても人気となっている高天神城址をご紹介していきます。

今川氏が築き、徳川家康と武田氏が争った要塞・高天神城

高天神城跡北駐車場の入口

高天神城は、戦国時代に駿河の大名今川氏が遠江に勢力を伸ばす中で築かれたと考えられています。標高132mの鶴翁山は、東に広がる田園地帯から遠州灘にかけての眺望が良く、遠江の東側の防御の拠点でした。今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にした後、三河の領主となった徳川家康は今川領を次々と切り取り、高天神城も手中に収めることとなりました。

小笠山の南東端の尾根の上に築かれた山城は、三方が断崖絶壁で、眼下に流れる中小の河川がお堀の役目を果たす天然の要塞でした。最も傾斜が緩い西側斜面には、攻めてくる敵に簡単に突破されないよう土塁、堀切、横堀などが幾重にも施されています。

元亀2年(1571)には、武田信玄が2万の大軍を率いて遠江へと進軍し、この高天神城の攻略に取り組みましたが、わずか2000の兵で撃退。信玄は高天神城が堅城であるのを見て退却したと伝えられています。

武田氏の手に落ちた高天神城を徳川家康が奪還

本丸跡
追手門側の上り口。しばらく歩くと追手門跡があります

武田信玄の死後、息子の武田勝頼が天正2(1574)年に再び2万の軍勢を率いて高天神城を攻めました。城主の小笠原長田は籠城して戦いましたが、徳川家康は援軍を送ることができず、2か月後に開城、武田氏の城となりました。

重要な拠点を奪われた家康ですが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が武田軍に勝利すると、家康は再び遠江に勢力を伸ばし、高天神城奪還のために周到な準備を進めます。高天神城から西におよそ6kmの場所に軍事拠点として横須賀城を築き、さらに、周囲に砦を築きました。そして、天正9(1581)年、万全を期して兵糧攻めを行います。武田軍は籠城しましたが、甲斐からの援軍は来ないと悟り城から打って出て、敵将の岡部元信以下、城兵の大半が討ち死にしています。落城を確認した家康は、城を焼き払ったといわれています。

追手門を入ってほどなく、着到櫓跡の案内が。敵が追手門を破って侵入した際に鐘を鳴らして城中に知らせました

尾根から覗う断崖絶壁、緑深い山の中に残る空堀や堀切、討ち死にした武士の慰霊碑。ここは、まさに「兵どもが夢の跡」。木漏れ日を感じながら城址を眺めると風にそよぐ木の葉の向こうから武士たちの足音や雄叫びが聞こえてくるような気がします。

山城の遺構と絶景が楽しめる、高天神城跡を歩く

搦手門から続く石段

さぁ、搦手門(からめてもん)から高天神城跡を歩いてみましょう。(入口は追手門と搦手門のふたつ。城の正面は追手門ですが、搦手門側にはより広い駐車場があります。)

現在は高天神社の境内となるため、入口に鳥居があります。城中守護の神社として創建された高天神社は、江戸時代に廃城となった後もそのまま残され、信仰の対象として地域で親しまれてきました。

うっそうと木々が茂る山道の入口の鳥居をくぐり登っていきます
杖も用意されています

鳥居を抜けると、階段状に整備された急な坂道が続きます。切り立った崖の高さや現れた地層など、のんびり周囲の様子を眺めながら登ってみてください。

戦国武将は重い鎧を着て、整備される前の山道を登ったのでしょう。攻め込む立場で考えると、いつ上から矢が振ってくるかもしれず緊張します
ほどなく、崖に沿って三日月の形をした、その名も「三日月井戸」が現れます。城内に二つある井戸のひとつで、崖から染み出た水が溜まっています
三日月井戸を過ぎたらもうひとがんばり。開けた尾根に出ます。ここから城跡は、尾根に沿って左右に分かれます
的場曲輪の斜面に沿った道を登ると、大河内石窟があります。本丸のある山の斜面に洞窟状に掘られた横穴です。高天神城を守っていた徳川方の多くの武将は、武田側に付くか徳川の元に帰還しました。しかし、最後まで武田勝頼に降伏しなかった軍監の大河内正局は、8年にわたってここに幽閉されます。石窟から出られたのは、徳川家康が再び高天神城を奪還した時でした。
現在は崩落防止のための土嚢が詰め込まれていて内部を見ることはできませんが、かなり劣悪な環境の中で過ごしていたことでしょう

さらに登ると本丸跡に。設置されていた説明看板(2023年3月上旬撤去予定)から、高天神城の戦いで動員された兵士の数の多さ、過酷だった戦況が伺えます。その脇は高天神社がもともと祀られていた場所で、小さな祠(ほこら)があります。

本丸跡。今は木漏れ日が降り注ぎ鳥のさえずりが聞こえる、平和で静かな場所です
本宮は城中守護として高天神社が置かれていた場所

本宮のある御前曲輪から、徳川家康が武田氏から高天神城を奪還するために築いた砦のひとつ「火ヶ峰砦」(ひがみねとりで)を望むことができます。お椀を臥したような形の山に築かれた砦は、高天神城から1.5kmと最も近い場所で、攻撃の要だったのでしょうか。また、ここからは牧之原台地越しに富士山の勇壮な姿を見ることができます。

木々の間から望む「火ヶ峰砦」。中央の丸い山に築かれていました
晴れて見通しのいい日には、富士山が見えます

山城ファン必見!防御設備が多く残る井楼曲輪へ

次は城の西側にある二ノ丸・井楼曲輪方面へ向かいます。ここは山の尾根の起伏や崖など、地形を巧みに利用した、堅牢な山城の姿が残っています。西側は緩斜面のため、尾根をV字状に切り開いた堀切や、尾根に沿って横方向に深く掘られた横堀など施し防御を固めています。攻め込むだけでも大変ですが、上から敵に丸見えのため、矢を射かけられたり石を落とされたりしたらひとたまりもありません。

堀切は尾根から6mほどの深さで幅は約9m。天正2(1574)年の戦いで城を有した武田軍が防御の補強を行いました
二ノ丸跡。天正2(1574)年の戦いでは、武田勝頼がここを包囲し猛撃を加え、城を落としました

平和な世を見守る、高天神社

一段と高い場所に祀られた社殿。江戸幕府八代将軍吉宗の時に、現在の場所へ遷されました
現在、高天神城の西の丸には高天神社が建っています。御祭神は、高皇産霊命(たかみむすびのみこと)、天菩比命(あめのほひのみこと)、菅原道真公の三柱。「高天神」の由来は、高い場所に祀られた天神様(菅原道真)だから、また、高皇産霊命と天神様が祀られているから、など、諸説あります。
社殿の下の井戸曲輪には、天神様のお使いの牛が鎮座しています
籠城中の城内で貴重な水を得た「かな井戸」。天正2(1574)年の戦いでは徳川軍が必死に防戦した場所と伝わっています

高天神城跡めぐりの最後は、絶景に癒やされましょう。高天神社の脇から尾根伝いに歩くと、馬場平に出ます。城の南側を見張る番所があったと伝えられています。そのため、見晴らしのよさは抜群。遠州灘から牧之原台地、さらにその向こうに伊豆半島の山々までパノラマで望めます。ベンチもあるので、ひと休みにも最適です。

高天神社にお参りしたら、ぜひ立ち寄りたい絶景ポイント。断崖絶壁の下は海が思いのほか近く、ここが遠州地方の防御の最前線だったと納得できる風景が広がります
甚五郎抜け道と呼ばれる、馬場平から尾根伝いに続く険しい山道。天正9(1581)年の落城の際に、武田方の軍監横田甚五郎が、この道から城を抜け出し甲州へ戻ったそうです。あまりの道の険しさに、別名「犬戻り猿戻り」とも言われています。
【高天神城跡】
住所:〒437-1435 静岡県掛川市上土方嶺向
電話:0537-24-8711(掛川観光協会)
駐車場:あり

地元の銘菓でほっとするティータイムを

地域一の大型店、たこまん大東総本店

高天神城跡から車で10分ほどの市街地に、おいしいお菓子をいただきながらひと休みできるスポット、たこまん大東総本店があります。たこまんは、地元の食材を積極的に用いてつくる和洋菓子を販売する菓子店です。
大東総本店は、売店で購入したお菓子やケーキをいただけるたこまん珈琲館を併設しています。家族や仲間と一緒にゆったり座れるボックス席の他、カウンター席もあり、おひとり様でも気兼ねなく過ごせます。

定番のお菓子や季節限定品が豊富に並ぶ店内。お菓子は1個から購入できるものも多いので、ちょっと甘いものが食べたい時にも嬉しいですね
たこまんを代表するお菓子といえば、浜岡砂丘をイメージしてふんわりと焼き上げたスポンジに、クリームをサンドした「大砂丘」。コクがあるのに爽やかな余韻が口の中に広がる定番のチーズクリームの他、いちごやメロンなど、旬のフルーツの美味しさを味わえる期間限定フレーバーも登場します。
遠州産いちごジュレソースといちごクリームをサンドした「大砂丘 ベリージュエル」200円、「大砂丘 チーズクリーム」180円
人気No.1のケーキ「プレミアムフルーツケーキ」540円。数種類のみずみずしいフルーツがたっぷり使われています
ショーケースにはケーキも豊富に並びます。たこまん珈琲館を利用すれば、出来たてのケーキをその場でいただけます。ドリンクはコーヒー(ホット・アイス)、紅茶、オレンジジュースが各100円。10:00〜13:30は、ランチメニューの提供もあります。
【たこまん 大東総本店】
住所:〒437-1421 静岡県掛川市大坂 419-1
電話:0537-72-2553
営業時間:9:00~19:00/たこまん珈琲館10:00~16:00(ランチ提供は~13:30)
定休:無休
駐車場:14台

【おまけ】徳川家康が初めて築城を命じた横須賀城跡へ

特徴ある玉石が積み上げられた石垣

徳川家康は、武田勝頼に奪われた高天神城奪還のために、周辺に城と砦を築きました。横須賀城は、その拠点となった重要な城です。山城と平城の中間のような城ですが、一番の特徴は丸い石を積み上げた石垣です。これは、大井川の堆積が隆起した小笠山礫層に含まれる川原石を使ったためです。多くの部分は復元されたものですが、一部に築城当時の玉石垣が残ります。

本丸跡に設置された模型。砂嘴は、天然の湊であり、堀にもなっていたようです
築城時は城のすぐ目の前まで海岸線が迫り、城中にも荷揚げができる湊があって、物資の運搬にも便利な場所でした。しかし、宝永4(1707)年の宝永地震の際に土地が隆起し、徐々に湊としての機能は失われていきました。
【横須賀城跡公園】
住所:〒437-1301 静岡県掛川市西大淵
電話:0537-24-8711(掛川観光協会)
駐車場:あり

まとめ

掛川城、高天神城、横須賀城にまつわる歴史は、地元では「掛川三城ものがたり」と呼ばれ、親しまれています

戦国時代に築かれた、掛川市にある掛川城、高天神城、横須賀城を巡る今川、武田、徳川による遠州の争いを掛川市では「掛川三城物語」と呼んでいます。この3つの城をめぐることで、掛川市が武将たちの領土争いの重要な地域だったことが再認識できます。

なかでも、高天神城は、徳川・武田の激しい戦闘が繰り広げられた城でした。山城の特徴が色濃く残る難攻不落の城。のんびりとめぐりながら、戦国ロマンにひたってみてはいかがでしょうか

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