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ホームスポット名所御朱印の次はこれ! 御城印がもらえる静岡県のお城を一挙にご紹介!!

御朱印の次はこれ! 御城印がもらえる静岡県のお城を一挙にご紹介!!

全国的に大ブームになっている御朱印に続き、お城への登城記念としていただくことのできる御城印が注目を集めています。
御城印には、お城ゆかりの武将の家紋や花押が使用されていたり、台紙に金色や赤、黒など力強い色が使われていたりと、戦国時代の武将のパワーが感じられるようなデザインが多く、歴女やお城マニアだけでなく、多くの人を魅了しています。
そこで、今回は静岡県内で御城印がいただけるお城を一挙にご紹介!各地のお城を訪ね、その地域で繰り広げられた戦いや戦国時代の歴史に思いを馳せつつ、御城印で旅の記念を集めてみませんか?

※御城印購入場所は、お城や城址とは離れたところにある場合がありますので、購入場所を事前に確認してお出かけください

伊豆エリア

山中城跡
山中城御城印

山中城(三島市)

山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530年-1560年頃)、小田原に本城をおく北条氏により築城されました。武田・今川領と国境を接する位置にあり、山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた天然の要害の地に築かれた山城で、北条氏の本拠地・小田原の西方防衛を担う最重要拠点となっていました。
1590(天正18)年、天下統一を目指す豊臣秀吉の小田原征伐において、最前線の軍事拠点として豊臣軍6万7千の総攻撃を受けることとなり、4千の北条軍は必死に防戦しましたが、激しい戦いの果て、圧倒的な兵力の前にわずか半日で落城したと伝えられています。
時代は下り、1934(昭和9)年に国の史跡として指定され、その後、三島市が学術的な調査とともに史跡公園として整備して一般開放されました。2006(平成18)年には歴史的、また戦国時代の築城技術をあらわす技術的価値を評価され、日本100名城にも選定されています。
戦国の雄・北条氏の滅亡とともに、廃城となった山中城・・・現在は「山中城跡公園」として、富士山を望み、多くの人々が訪れる憩いの地となっています。

【御城印購入場所・問い合わせ】山中城址案内所・売店 TEL: 055-985-2970

興国寺城跡
興国寺城御城印

興国寺城(沼津市)

沼津は戦国時代、戦国大名による激しい争奪戦が繰り広げられ、各勢力の最前線として多くの城郭が築城された土地でした。
中でも興国寺城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖・伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として知られています。愛鷹山の南麓に位置し、この地の地形を天然の要害として、東西・南北方向への道が交わる交通の要衝に築城されています。
伊勢新九郎盛時は、今川氏の家督相続争いにおいて、甥にあたる今川氏親を助けた功により1488(長享2)年、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされています。その後、伊豆国に進出し、戦国大名への第一歩を踏み出していくのですが、興国寺城は列強による領地争いの境界にある城として争いの渦中に置かれ続け、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏へ、次々と支配者が移り変わっていくこととなります。 関ケ原合戦の後、徳川家康の家臣・天野康景が興国寺藩1万石で入封し城主となりますが、康景は領内の問題で責めを負い、その裁定を不満として出奔したため、1607(慶長12)年に藩は改易、興国寺城は廃城となりました。
現在の興国寺城跡は、発掘調査により石垣、土塁、空堀などの遺構を確認することができ、1995(平成7)年には国の史跡、2017(平成29)年には続日本100名城に選定されています。
約113,000㎡もの面積をもつといわれる静岡県東部を代表する山城から、この地で繰り返されてきた戦いの歴史に思いを馳せてみましょう。

【御城印購入場所】 野﨑園 / お茶の興国園 / エス・キムラ
  ※興国寺城址では購入できません。詳細は下記リンクよりご確認ください。
【問い合わせ】NPO法人沼津観光協会 TEL: 055-964-1300

長浜城跡
長浜城御城印

長浜城(沼津市)

1560(永禄3)年、桶狭間の戦いにより今川義元が討ち取られ、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部)を治めていた今川氏が衰退すると、この機に乗じた甲斐(かい:現在の山梨県)の武田信玄は駿河侵攻を開始しました。これに対し、関東一円を治める北条氏は、伊豆に水軍を組織してその脅威に備えることとし、伊豆における北条水軍の根拠地のひとつが重須(おもす)湊、これを守るのが長浜城であったと考えられています。
1580(天正8)年には、北条水軍と武田水軍による駿河湾海戦があったとの記録もあり、駿河湾を挟んだ両軍の緊張状態は、1582(天正10)年、武田氏が織田信長に滅ぼされるまで続きました。
その後、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、北条方の小田原籠城策に呼応し、水軍の主力も小田原の川岸に集結したことから、長浜城は水軍基地としての機能を失い、北条氏の滅亡とともに廃城となりました。
現在の長浜城は、沼津市による詳細分布調査により、曲輪や堀切、土塁跡など戦国時代後半における特徴的な防御構造を確認することができ、1988(昭和63)年には国の史跡に指定されました。また、2015(平成27)年には史跡整備が完了し、史跡公園としてオープンしています。
長浜城跡で約400年前の“海賊城”の姿と、この地で繰り広げられた海戦を思い描いてみましょう。

【御城印購入場所】 野﨑園 / お茶の興国園 / エス・キムラ
  ※長浜城址では購入できません。詳細は下記リンクよりご確認ください。
【問い合わせ】NPO法人沼津観光協会 TEL: 055-964-1300

中部エリア

駿府城 坤櫓
駿府城御城印

駿府城(静岡市)

駿河国は、戦国時代の覇者・徳川家康がその幼少期(幼名:竹千代)に今川氏の人質として19歳までの11年間、苦難の時を過ごした場所でした。
後に天下統一を果たし、征夷大将軍となった家康は、1605(慶長10)年にその職を2代将軍・秀忠に譲ると、「大御所」として駿府城に居城し、天下の実権を掌握して権勢を振るうこととなります。入城にあたり、駿府城の拡張・修築を行うとともに、駿府の町割りや大規模な安倍川の治水事業に着手し、この時、現在の静岡市街地の原型が作られました。当時、大御所政治の拠点であった駿府は江戸を凌ぎ、政治・経済・文化の中心であったと言われています。
残念ながら1635(寛永12)年、駿府城下の火災が延焼し、天守閣も焼け落ちてしまいましたが、1989(平成元)年に静岡市制100周年記念事業として二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が復元されると、その後、東御門、二ノ丸南西角の坤櫓(ひつじさるやぐら)なども復元され、現在は「駿府城公園」として市民の憩いの場となっています。また、2016(平成28)年から天守台の発掘調査が開始されると、そのサイズは南北68m、東西61mに及んで江戸城(45m×41m)をも凌ぎ、他に類を見ない巨大なものであったことが判明しています。
天下人・徳川家康が晩年を過ごした駿府城・・・今は見ることのできない、天下一の偉容は一体どんな姿をしていたのでしょうか?

【御城印購入場所】 駿府城公園 東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園の各施設入場券販売窓口

【問い合わせ】駿府城公園二の丸施設管理事務所 TEL: 054-251-0016

田中城跡(史跡田中城下屋敷)
田中城御城印

田中城(藤枝市)

田中城は1537(天文6)年、今川氏によって築かれ、前身は徳一色城と呼ばれていましたが、1570(永禄13)年、武田信玄によって攻め落とされると、信玄の命によって改修され、田中城と改名されました。
織田・徳川連合軍による甲州征伐の際、徳川軍からの激しい攻撃にも頑強に抵抗し、主家・武田勝頼の死後まで守り抜かれましたが、1582(天正10)年、説得を受け入れついに開城することとなりました。
後に、大御所として駿府城を居城とした徳川家康の支配下となりますが、1616(元和2)年、田中城に立ち寄った家康が、京の豪商・茶屋四郎次郎から鯛の天ぷらを供され、これを食べ過ぎたことが死因になったとの説は有名で、田中城はその舞台となったことでも知られています。
また田中城は、4重の円を描いたような堀に囲まれた珍しい縄張の城郭としても知られています。1871(明治4)年の廃城後、その土地の多くは民有地となって姿を変えてしまいましたが、現在もこの地域の道路の形状から、城の縄張の名残を見ることができます。現在の田中城跡は、江戸時代後期におかれた城主の下屋敷(別荘)庭園を復元するとともに、田中城ゆかりの建物(本丸櫓、茶室など)を移築・復元し、史跡公園として一般に公開しています。 家康の死にまつわる謎と伝説の地を、その目で確かめてみませんか?

【御城印購入場所・問い合わせ】史跡田中城下屋敷 TEL: 054-644-3345

諏訪原城跡
諏訪原城御城印

諏訪原城(島田市)

諏訪原城は、当時、徳川家康が領した遠江(とおとうみ:現在の静岡県西部地方)獲得を目指す武田勝頼の命により、1573(天正元)年、徳川氏との国境に位置する牧之原台地に築城されました。城内に諏訪大明神を祀ったことから、その名がついたと言われています。
1575(天正3)年、長篠の戦いで武田軍が織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、諏訪原城も攻勢に転じた徳川軍の包囲を受け、1ヶ月余りに亘る攻防の末、やむなく開城することとなりました。その後は牧野城と名を改め、武田氏攻略の拠点となりますが、武田氏滅亡後はその存在意義が薄れ、1590(天正18)年に廃城となっています。
後に明治維新を迎え、最後の将軍・徳川慶喜が駿府に配されると、慶喜を慕って追従した旧幕臣たちが、自活のために荒廃していた牧野城周辺に移住して主に茶畑として開墾したことから、城址一帯の牧之原台地は日本一の茶産地・静岡を支えるお茶の一大産地となりました。
現在の諏訪原城跡に建築物は残っていませんが、戦国時代の武田氏の築城技術を知る貴重な遺構が残り、1975(昭和50)年に国の史跡に指定、2017(平成29)年には続日本100名城にも選定されています。
静岡県を象徴する広大な茶畑の風景とともに、この地の歴史にも触れてみましょう。

【御城印購入場所】 諏訪原城ビジターセンター(諏訪原城跡第一駐車場敷地内)
  ※島田市博物館でも購入できます。
【問い合わせ】島田市文化資源活用課 TEL: 0547-36-7381

展望台小山城
小山城御城印

小山城(吉田町)

小山城は、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台になったとされ、1571(元亀2)年、山崎の砦を徳川家康から奪取した武田信玄が、あらたに城郭を整備して小山城と名づけ、以後、遠州攻略への拠点となりました。
武田氏と徳川氏の激しい戦いが、この地で何度も繰り返されましたが、信玄亡き後、武田氏の衰退とともに徳川軍の猛攻を受けることとなります。堅牢な小山城は落城することなく防戦を続けましたが、諏訪原城(前出)、高天神城(後出)が落城し、織田・徳川連合軍による甲州征伐が開始されると、敗北を悟った城兵たちは自ら城に火をかけ、甲州に落ちて行きました。
その際、当時の大井川の激流を渡るには女子供は足手まといになるだろうと、愛する夫の無事の帰郷を祈り、女たちは自ら井戸に身を投げたのだそうです。軍師・山本勘助ゆかりの勘助井戸周辺には、女たちの霊が姿を変えた赤い唇の蛭が住むという悲しい伝説が残っています。
現在の小山城跡は、吉田町が能満寺山(のうまんじやま)公園として整備し、三重堀などの遺構とともに、町のシンボルとして模擬天守「展望台小山城」が設けられています。
武田氏と徳川氏の激戦の歴史とともに、そこで生まれた悲劇にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

【御城印購入場所・問い合わせ】 展望台小山城 TEL: 0548-32-9286
 ※小山城売店「しらすのまどぐち」でも購入できます。

相良城跡(牧之原市史料館)
相良城御城印

相良城(牧之原市)

相良城が位置したこの地には、平安時代末期から鎌倉時代初頭にかけて、相良庄の武士・地頭であった相良氏が館(相良館)を築いて本拠とし、また、戦国時代には高天神城(後出)を攻略して遠江の支配を図った武田勝頼により、相良古城が築かれていました。
その後、領主は次々に入れ替わることとなりますが、近世の相良城は、10代将軍・徳川家治のもと、老中として江戸幕府の財政立て直しに手腕をふるった田沼意次により築かれました。
1758(宝暦8)年、相良領主となった意次は、将軍の信任を受けて所領も加増を重ね、築城も許可されて城主格となると、相良城の建設に着手します。1780(安永9)年に完成した相良城は、三重櫓の天守閣、これを中心とした6基の櫓、三重の堀を廻らし、その規模は東西500m、南北450m、約7万坪にも及ぶものでした。
しかし、1786(天明6)年、将軍・家治が没し松平定信が老中となると、意次は失脚して蟄居・減封を命じられることとなり、相良城は廃城、1788(天明8)年には徹底的に破壊されてしまいました。
現在の相良城跡には土塁、石垣などの遺構の他、本丸跡には牧之原市資料館があり、不本意ながらも賄賂政治で有名になってしまったものの、近年、その功績が見直されつつある田沼意次の足跡を知ることができます。
身分の低い家柄から、優れた先見性、創造性と努力により、歴史に「田沼時代」とも呼ばれる一時代を築いた偉大な政治家としての意次を知り、ご自身の目で歴史を見直す契機にしてみてはいかがでしょうか?

【御城印購入場所・問い合わせ】牧之原市資料館 TEL: 0548-53-2625

西部エリア

掛川城
掛川城御朱印(掛川城オリジナル版)
掛川城御城印(三城物語版)
掛川三城物語の御城印を並べるとこの地方の地図に

掛川城(掛川市)

掛川城は、室町時代中期の文明年間(1469年-1487年)に守護大名・今川義忠の命により、遠江支配の拠点として築城されたと伝えられています。
戦国時代には、司馬遼太郎の歴史小説『功名が辻』でも知られる戦国武将・山内一豊が在城して大規模な城郭の修築を行い、天守閣、大手門などが建設されました。貴族的な外観を持つ天守閣は、「東海の名城」と謳われるほどの美しさを誇っていましたが、1854(安政元)年の安政東海地震により倒壊すると、その後140年もの間、再建されることはありませんでした。
しかし、1994(平成6)年、掛川市民や地元企業から10億円もの募金を集め、日本初の本格木造天守閣として復元され、2006(平成18)年には日本100名城にも選定されています。また、江戸時代後期に藩の公的式典の場、藩主の公邸などとして建設された掛川城御殿は、全国でも希少な城郭御殿として現存しており、国の重要文化財に指定されています。
掛川市民の熱意と努力が実を結び、市のシンボルとして蘇った掛川城・・・地元の方たちのこの城への思いとともに、戦国武将たちが躍動した歴史の息吹を感じてみましょう。

掛川城の御城印は2種類あります。

<掛川城オリジナル版>
【御城印購入場所】掛川城御殿(掛川城公園内)
【問い合わせ】 掛川城公園管理事務所 TEL: 0537-22-1146

<三城物語版>
三城物語・・掛川城、高天神城、横須賀城の御城印3枚セット

【御城印購入場所・問い合わせ】
掛川観光協会ビジターセンター 旅のスイッチ(掛川駅構内)TEL:0537-24-8711
掛川南部観光案内処(プラザ大須賀内) TEL: 0537-48-0190

高天神城跡
高天神城御城印
高天神城御城印(三城物語版)

高天神城(掛川市)

高天神城には、平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)の際に築城されたとの伝承もありますが、これを証明する文献・考古学的発見はなされておらず、築城時の詳細については分かっていません。
「高天神を制するものは遠州を制する」といわれた要衝に位置しており、標高132mの鶴翁山の地形を巧みに活かし、東海一の堅塁を誇った山城で、「難攻不落の名城」と呼ばれました。戦国時代には、徳川家康と武田信玄・勝頼による攻防戦が繰り広げられ、特に、1574(天正2)年、1580(天正8)年の2度にわたる戦いは、「高天神城の戦い」として戦国史上でも名高い激戦となりました。
1575(天正3)年、長篠の戦いで武田氏が織田・徳川連合軍に敗れると、攻勢に転じた徳川軍は諏訪原城(前出)など周囲の城を落として高天神城の補給路を断ち、1580(天正8)年、満を持して総攻撃(第二次高天神城の戦い)を開始します。城将・岡部元信も激しく抗戦しますが、兵糧攻めにあい、また武田勝頼も援軍を送ることができなかったことから、翌1581(天正9)年、岡部以下の城兵は城から打って出ると、敵陣への突撃を敢行し、そのほとんどが討死を遂げるという壮絶な最期となりました。こうして高天神城は落城し、その後廃城となっています。
現在の高天神城跡は、2017(平成29)年に続日本100名城に選定、また国の指定史跡として遊歩道も整備されており、鬱蒼と生い茂る杉や檜に覆われ、昼なお暗い石段を登って山頂に向かうと、この山全体が巨大な要塞であったことを伺うことができます。 この地で繰り広げられた激戦に思いを馳せ、一時、戦国ロマンに身をゆだねてみてはいかがでしょうか?

【御城印購入場所・問い合わせ】
※高天神城跡では購入できません。
※三城物語版も販売しています。
掛川観光協会ビジターセンター 旅のスイッチ(掛川駅構内)TEL:0537-24-8711
掛川南部観光案内処(プラザ大須賀内) TEL: 0537-48-0190

横須賀城跡
横須賀城御城印
横須賀城御城印(三城物語版)

横須賀城(掛川市)

1574(天正2)年、武田勝頼に高天神城(前出)を奪われた(第一次高天神城の戦い)徳川家康は、高天神城を奪還するため、1578(天正6)年、大須賀康高に命じて横須賀城を築かせ、康高を城主としました。
1581年(天正9)年、高天神城の落城とともに廃城となると、横須賀城が遠州南部の拠点として位置づけられ、以後、明治維新により廃城となるまで280年余にわたり横須賀藩の中心となっていました。
廃城に伴い、城内の土地、建物、石垣、樹木までが民間に払い下げられましたが、城跡消滅の危機に地域住民から保存の声が上がり、1981(昭和56)年には、国の史跡に指定されています。
現在の横須賀城跡は、石垣、堀、土塁などの遺構が残っており、「横須賀城跡公園」として整備されています。中でも、天竜川から運ばれた丸い河原石を積み上げた「玉石垣」と呼ばれる石垣は特徴的で、他に類のないものとなっています。 丸い石が積み上がった不思議な石垣に、中世の築城技術の高さを実感してみましょう。

【御城印購入場所・問い合わせ】
※横須賀城跡では購入できません。
※三城物語版も販売しています。
掛川観光協会ビジターセンター 旅のスイッチ(掛川駅構内)TEL:0537-24-8711
掛川南部観光案内処(プラザ大須賀内) TEL: 0537-48-0190

久野城址
久野城御城印

久野城(袋井市)

久野城は、この地の領主であった久野宗隆が明応年間(1492~1501年頃)に築城したものと考えられています。
久野氏は駿河を本拠とした今川氏に属していましたが、1560(永禄3)年、桶狭間の戦いで今川氏が敗れ、二代城主・元宗が討死すると、家督を継いだ弟・宗能(むねよし)は徳川家康に従い、高天神城の戦い、小牧長久手の戦いなど、各地で戦功をたてました。1590(天正18)年、徳川家康の関東転出に伴い、久野宗能も下総・佐倉に移されますが、久野城は宗能の再任を含め通算8代、約150年にわたりこの地を治める拠点となっていました。最後の城主・北条氏重の転封とともに横須賀藩預かりとなり、1644(正保元)年に廃城となっています。
現在の久野城跡は、公園として整備されており、土塁、堅堀などの遺構が残っています。 戦国時代、「当国第一の要害にして、たとい何万騎を差し向けても落つべくも見えず」と謳われた堅塁をその目で確かめてみましょう。

【御城印購入場所・問い合わせ】
※久野城址では購入できません。
袋井北コミュニティセンター TEL:0538-43-3387

浜松城
浜松城御城印

浜松城(浜松市)

浜松城は、戦国の覇者・徳川家康が1569(永禄12)年から1586(天正14)年までの17年間、その若き日を過ごしたことで知られ、また、歴代の城主が江戸幕府の重役に出世した例が多いことから、“出世城”とも呼ばれています。
1573(元亀3)年、武田信玄が織田信長との決戦を期して上洛を目指す途上、この城を無視するような行軍をして家康を挑発すると、激怒した家康は浜松城から打って出、三方ヶ原で決戦を挑みますが、戦国時代最強と謳われた武田騎馬軍団の前に大敗を喫します(三方ヶ原の戦い)。わずかな供回りのみで浜松城へ逃げ帰った家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる「空城の計」によって追撃してきた山県昌景の警戒心を煽り、城内に突入することを躊躇させて、この人生最大の危機を乗り越えました。
浜松城は、その後の江戸時代においても、徳川譜代の大名各家が次々と在城することとなりますが、明治維新とともに廃城となりました。
時代は下り、浜松城跡は1950(昭和25)年に「浜松城公園」となり、1958(昭和33)年には復興天守が再建されています。現在の浜松城公園は桜の名所としても知られる市民の憩いの場となり、また天守閣は、家康が19歳の時に着用したとされる金陀美具足など、ゆかりの品々を見学することができる資料館となっています。
この地を足掛かりに天下を制した徳川家康・・・“出世城”浜松城からそのパワーをもらい、御利益にあずかってみませんか?

【御城印購入場所・問い合わせ】浜松城天守閣・天守門 TEL: 053-453-3872

高根城
高根城御城印

高根城(浜松市)

高根城は南北朝時代、後醍醐天皇の孫・尹良(ゆきよし)親王を守るために、この地の豪族であった奥山金吾正定則により、1414(応永21)年に築かれたといわれています。
戦国時代には、駿河の今川氏に属しましたが、桶狭間の戦いで敗れた今川氏の衰退とともに武田信玄による遠江侵攻が始まり、1569年(永禄12)年、信玄配下の信州・遠山氏に攻められ落城しました。その後、武田氏の遠江侵攻における拠点となりますが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れると遠江から撤退することとなり、高根城も廃城となりました。
現在の高根城は、発掘調査をもとに城郭の復元整備が行われ、井楼櫓(せいろうやぐら)、主殿、城門などが復元されています。また近年では、2017(平成29)年放送のNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』のロケ地としても知られることとなりました。
中世の遺構とともに、歴史ドラマの舞台となった地を訪れてみるのはいかがでしょうか?

【御城印購入場所】
※高根城では購入できません。
水窪総合体育館 / みさくぼ路の里 / 食堂・お土産 国盗 
【問い合わせ】天竜区観光協会水窪(みさくぼ)支部 TEL: 053-987-2100

二俣城址
二俣城御城印

二俣城(浜松市)

二俣城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際、今川氏が拠点として城館を築いたのがその初めとされています。
戦国時代には、高天神城、諏訪原城(ともに前出)などとともに徳川家康と武田信玄・勝頼による激しい攻防の舞台となりますが、特に、家康の長男・松平信康が父・家康に切腹を命じられ、若くして自害した悲劇の地としても知られています。
1579(天正7)年、家康の同盟者であった織田信長に、家康の正妻・築山殿と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされます。その信憑性は非常に薄いものであったにもかかわらず、信長は家康にこの二人の処断を求め、家康は悩み苦しんだ末、築山殿を殺害すると、二俣城に幽閉していた信康に切腹を命じました。信康は享年わずか21歳、この時介錯を務めた服部半蔵は、涙のあまり刀を振り下ろすことができなかったと伝えられています。
後の1590(天正18)年、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となりましたが、1600(慶長5)年、堀尾氏の出雲転封とともに廃城となりました。
現在は公園として整備され、天守台、石垣、土塁などの遺構が残っており、2018(平成30)年には国の史跡となっています。 徳川・武田の激戦の地であるとともに、若き武将が悲運の最期を遂げた二俣城・・・戦国時代に繰り広げられた悲劇にも思いを馳せてみましょう。

【御城印購入場所・問い合わせ】天竜区観光協会天竜支部 TEL: 053-925-5845

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